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第一部 小さな有紗 小さな有紗は泣いていた。だれにも気づかれないようにひっそりと、小さな茶箪笥の陰で泣いていた。ただひとり有紗の味方だった犬のチロがよその家にもらわれていったのだ。「父ちゃんの仕事仲間のガラス屋さんの家で飼われることになった」と、学校から帰った有紗に母は告げた。有紗には泣くことしかできなかった。父親に抗議することも、母親に駄々をこねることも知らなかった。 一章 有紗の母は彼女を生んでまもなく病気で病院に行ってしまった。有紗の家は母の実家の隣だった。そこで、有紗の面倒は祖母の仕事になった。祖母は「なんで、この年で子育てせんならんがけ」とためいきをついた。有紗は風呂に入るのが大嫌いな子だった。有紗の髪を梳かせることができないほど汚れると、祖母はいやいや有紗を銭湯に連れていき、頭からバケツでお湯をかけた。着替えに手間取っている有紗を愚図だのろまだと怒鳴りつけた。 有紗は幼少時代を、幼稚園にも保育園にも通わず、家でひとりで過ごした。幸い、母の実家には一つ違いの従兄妹が二人いた。 有紗が小学校に入学した年、大きな出来事が起こった。母が病院から帰ってきたこと、父が家で仕事を始めたこと。祖母の体に隠れるようにして、有紗は白い顔の着物姿の女の人を見た。遠くへ行ったことがなかったので、小学校に入学した翌日、有紗は迷子になった。向かえに来た父親の背中にしがみついて、涙をぬぐった。 夏、毎日一緒に遊んでいた一つ下の従姉妹が死んだ。妹のような従姉妹を亡くし、有紗のこころに大きな穴がぽっかりと開いた。 葬式が終わってしばらくして隣家に行った。どこにも従姉妹のものがないことに気づいた。一緒に遊んだままごとはどこ?一緒に抱いたお人形さんはどこ?祖母に尋ねることはできなかった。ましてや、叔母には聞けなかった。誰も従姉妹の名を口にしなかった。有紗はほんとうは従姉妹なんて、はじめから存在しなかったのだろうか、と思った。いつも一緒に遊んだ庭には、変わらぬままに苔むした石があった。そこには、何年もかけて雨だれがつくった窪みがあった。従姉妹とはもう二度と会えないのだろうか。有紗が「また明日」と言っていつも通り別れただけなのに。 有紗が犬を抱えて帰ったのはその後のことだった。 学校からの帰り道、箱に入った捨て犬を見つけた。母に「飼ってもいい?」と聞いた。「とうちゃんがなんというかね」と母。案の定、翌日、学校から帰ってみると、子犬はいなかった。有紗は誰にも犬はどこへ行ったのかと尋ねなかった。 数日後、ランドセルを背負った有紗の胸に、また、一匹の茶色の子犬がいた。今度は、両親もなにも言わなかった。しかし、チロと名付けられたその犬を、父親はことあるごとにいじめた。ホルマリンの瓶に顔をつっこませては「馬鹿な犬だ」と罵った。 有紗には安心して心を許せる大人はいなかった。歌も歌えない、時計の見方もわからないという有紗を無視する学校の先生。母の目を通した父は母を女中のようにこきつかう暴君。有紗に過干渉な上に愚痴をこぼす母。いやらしい目で有紗を見る職人。 その頃、父は家に職人を置いて、商売を拡張させていた。母は商売の手伝いと家事に追われていた。居間の片隅に、疲れ果て眠りこけている母親の姿を見た。その横顔を美しいと思った。この母に心配させてはいけない、わたしはいい子でいなければいけないと思った。 時々母は倒れた。水枕を運ぶ有紗に母は弱々しく「今度こそだめかもしれない」とつぶやいた。有紗は不安でどこにも行けなかった。自分がいないときに母が何処かに行ってしまうように思えた。また明日と別れてそれっきり会えなくなった従姉妹のように。 そして、とうとう、ある日、母はいなくなった。「母ちゃんは」と、父に尋ねると「病院で手術をしている」という。翌日、学校帰りに病院へ行った。母は死んだ人のように青い顔をして寝ていた。「たくさんの血が流れた」という。弱々しい笑顔を見せて「病気がうつるといけないから病院へは来てはいけない」と言った。病室をでた有紗は、病院の中で迷ってしまった。階段を降りると冷たい空気。ドアを開けると、そこは霊安室。病院を出てからも、有紗の胸はどきどきしていた。母もあのように、冷たい部屋で冷たい人になってしまうのだろうかと不安になった。結局、父は母が退院する日まで、1度も病院へは行かなかった。 有紗には心を許せる大人はいなかったけれど、チロがいた。学校から帰るとチロを連れて原っぱに出かけた。雑草のなかにレンゲやなずなを見つけ、花束をつくる有紗の周りを、チロが駆け回った。「チロ!」と声を掛けると、駆け寄ってきて、有紗の手や足、顔をなめるチロ。チロを抱きしめるとき、有紗はいやなことがすべて忘れられた。学校のことも、母のことも、父のことも、職人のことも。なのに、チロを父は、よその家にやってしまった。有紗に一言も言わずに。有紗が悲しむことを知っているはずの母も、なにも言わずに。小さな有紗は箪笥に身を隠し、泣くしかなかった。 二章 あれは、いったいいくつの頃だったのだろうか。有紗には父親違いの姉がいたと知った。誰も死んだ人がいないのに、母は時々仏壇で手を合わせていた。あの日、有紗は柱の陰でみんな聞いてしまった。お線香の匂いが漂っていた。仏壇の前で、祖母と母は話していた。後日、姉の命日だったと知った。 「慶子ちゃんが死んでよかったよね」祖母の声。 「なんてこというの…わたしはあの子が生きていたら…それでよかった」母の涙声。 「そんなこというけどね、あの子が死んだから、おまえは今、こうしていい旦那さんと有紗がいて幸せなんじゃないか」 「わたしは、幸せなんかじゃない。慶子さえいればよかった。母さんには戦争で夫を亡くして出戻りになったわたしが邪魔だったんでしょ!」 「そんなことないよ。あのままで、生きていけるわけないじゃないか」 「わたしはちゃんと働いて、慶子を育てられた。母さんが…母さんが…慶子をちゃんと見ていてくれたら、あの子は死なずに済んだのよ」母は泣きじゃくり、祖母を責めた。祖母は怒って帰ってしまった。 有紗は庭の木のてっぺんに登って、涙をぬぐった。母は幸せではないのだ。母はわたしのことより慶子ちゃんが大切だったんだ。慶子ちゃんが生きていれば、わたしはこの世に存在しないのだ。母はそちらの方を望んでいたのだ。そうだよな。あんな暴力ふるう父ちゃんなんか。かわいそうな母ちゃん。 有紗は人の問題と自分の問題の区別がつかない子になっていった。かわいそうな母ちゃんは、かわいそうな有紗だった。母が泣くと、有紗も泣いた。母の価値観は有紗の価値観。母の人生観は有紗の人生観になった。母と同一になることで、母の愛情を得たいと思ったわけではない。無意識のうちに、母に見捨てられたくないと、母と自分を同一化させていった。 三章 その頃、一つ年上の従兄弟が飼っていた十姉妹にひなが生まれた。有紗と従兄弟は掌にひなを乗せ、口移しに餌をやり、ひなの親になった。従兄弟は一羽あげてもいいと言った。そして、籠を分けて一羽の十姉妹を有紗が育てることになった。 有紗には籠の中はとても窮屈に思えた。籠に閉じこめられた十姉妹の「チャコ」がかわいそうに思えた。ある日、部屋に新聞を敷いて、部屋の中を自由に飛べるようにした。チュチュと鳥真似をすると、チャコはかつてのチロのように、有紗の肩に止まり、髪を引っ張ったりするのだった。そうこうするうちに、有紗は大胆にも、チャコを庭で自由に放そうと思いついた。チャコを、夕方になってお腹が空くと籠に戻るようにしつけた。庭の中を自由に遊び回るチャコの姿は、有紗の自由を象徴していた。池で水浴びをし木陰でさえずるチャコを見ていると、楽しくなるのだった。そうだ、お友だちがいなくちゃ。思いつくとすぐ行動したくなるのが有紗だった。さっそく、従兄弟の家から「シロ」というまだ十分にしつけられていない十姉妹をもらってきた。そうしてある日、庭に迷い込んだ半ば野生の「クロ」という十姉妹も仲間になった。有紗は庭で小鳥たちと過ごしている間、自分も鳥のように飛んでいるような気持ちになれた。 とこらが、ある日、夕方になってもチャコは帰らなかった。チャコ!チャコ!と呼びながら、母に諦めなと言われるまで、夜の町を捜しつづけた。 有紗は言いしれぬ不安にこころを痛めた。犬のチロを失った日を思い出していた。本当の意味でチロを失ったのは、チロが他家へやられた日ではなかった。よその家にもらわれていったチロは、その家で叱られると必ず、有紗の家に戻ってきた。大喜びで抱きついた有紗に、チロは昔のように甘えなかった。有紗はチロには別人に見えるほど、少し大人になっていたのだ。変わらない母に甘えて、チロは子犬の時のように母の膝に上がろうとしては、はみ出る足に難儀していた。その姿を見ながら、有紗はひそかに疎外感を味わっていた。ぺろぺろと自分の涙を舐めてくれたチロはもういないのだと。茶箪笥の陰で泣いた有紗の涙を誰も知らなかったのだと。この日、はじめて有紗は、誰にも愛されていない自分を知った。その孤独感を、チャコを失った今、再び思い出していた。 チロは有紗を裏切った。そして、チャコも有紗を裏切った。あんなに自由にしてあげたのに。有紗には自由はなかった。有紗には食べてはいけないもの、やってはいけないことがいっぱいあった。家から自由に出ることも許されなかった。友だちと出かけることも許されなかった。母は有紗の体が弱くて、死んではいけないからだと言った。死ぬことは一番いけないことだと。死は最大の裏切りだと。こんなにお前を愛しているのだからと。 だから、有紗は、どんなに辛くても生きているのに、なぜ?なぜ?チロもチャコも。有紗には許せなかった。従姉妹を失った。チロを失った。チャコを失った。どうしてみんな、わたしを置いて逝ってしまうの? 有紗には、もうあたたかい温もりが見つけられなかった。 四章 母が少しずつ元気を取り戻しはじめた頃、有紗は上級生になっていたのだろうか。有紗より二つ年下の父方の従姉弟が一緒に暮らすことになった。姉弟ができて、有紗のひとりぽっちの夜はなくなった。不安は減ったが、もめ事は増えた。母との一体感もなくなった。 雪の朝、誰が雪かきをするかで喧嘩になった。一緒に雪かきしようと声かけをするのに、従姉弟は炬燵にもぐり込んだまま返事をしない。「あんたがズルイ子だって知ってたわ」というや、従姉弟は悪態をつきはじめた。弟のようにかわいがってねと母は言ったけれど、どこがかわいいっていうの。靴下だってあの子のはあんなに新しくて温かそうなのに。 三月、従姉弟の学校の担任との面談から帰った母は「先生が、お前とあの子が喧嘩するのは、お前の嫉妬心だと言うのだけどね…あの子はよその子だから、お前に買えなくてもあの子にはちゃんとしたものを買って上げなくちゃいけないんだよ」と諭した。嫉妬なんかしていない。ほんとうにあの子が悪いから、注意しただけなのに。 そして、有紗は母も従姉弟も恨まず、嫉妬心を憎むことが正しいことだと学習した。その年の冬、有紗はそろばん塾でぼーっとしていて、ジャケットの肘をストーブで焦がして穴をつくっていた。でも、母に新しいジャケットが欲しいとは言えなかった。家の家計が大変なことがわかっていたからだ。「若草物語」の中に自分を投影させて、そうして自分がけなげに振る舞うことがいい子だと。 こうして有紗は思春期を迎えた。近所では評判の親孝行娘となった。反抗期もなくうつむいた少女になっていた。 |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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哀しいお話ですね・・ |
風子 2007/12/16 10:00 |
誰にも言えないこと、話せない心のうちがあるものですね。独りである自分を抱えて大人になっていく・・・それが人というものなのでしょう。有紗さんはどんな大人になるのでしょうか。 |
森の生活 2007/12/16 14:51 |
悲しいお話です。 |
kagi狸 2007/12/16 17:56 |
有紗の幼少の頃の思いでは生涯脳裏が離れることがないでしょう。従姉妹の死の悲しみや十姉妹との出会いや学校から帰ってきて密かに犬との散歩に佳い思い出が残ったのかも知れません。従姉妹が亡くなった悲しみに耐えて十姉妹との出会いがあったりイヌとの出会いで生きるものの命の大切さが育まれたことと思います。きっと立派な社会人になっていることでしょう。 |
chiharu 2007/12/16 21:36 |
◇風子さん♪ |
ののはな 2007/12/17 20:48 |
誰にも愛されていないように見える有紗・・・・なんだか |
魔女 2007/12/19 09:33 |
◇森の生活さん♪ |
ののはな 2007/12/19 21:31 |
◇kagi狸さん♪ |
ののはな 2007/12/19 21:38 |
◇chiharuさん♪ |
ののはな 2007/12/19 21:42 |
◇魔女さん♪ |
ののはな 2007/12/19 21:45 |
ご心配かけまして・・・ |
魔女 2007/12/21 21:49 |
◇魔女さん♪ |
ののはな 2007/12/22 01:35 |
メールの出し方・・・・わかりませ〜ん!! |
魔女 2007/12/22 19:52 |
魔女さん |
ののはな 2007/12/23 00:01 |
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