静音の小径

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zoom RSS あれが阿多多羅山 これがほんとの空

<<   作成日時 : 2008/06/12 22:14   >>

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Slava - Wolfgang Amadeus_Mozart - Ave Maria.

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樹下の二人


*みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ*

あれが阿多多羅山(あたたらやま)
あの光るのが阿武隈川

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると
うつとりねむるやうな頭の中に
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります
この大きな冬のはじめの野山の中に
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう

あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり
無限の境に烟るものこそ
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ
こんなにも苦渋を身に負ふ私に
爽かな若さの泉を注いでくれる
むしろ魔もののやうに捉(とら)へがたい
妙に変幻するものですね

あれが阿多多羅山
あの光るのが阿武隈川

ここはあなたの生れたふるさと
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)
それでは足をのびのびと投げ出して
このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の
木の香に満ちた空気を吸はう
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう
私は又あした遠く去る
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ
ここはあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地
まだ松風が吹いてゐます
もう一度この冬のはじめの
物寂しいパノラマの地理を教へて下さい

あれが阿多多羅山
あの光るのが阿武隈川


画像


**あどけない話**

智恵子は東京に空が無いといふ
ほんとの空が見たいといふ
私は驚いて空を見る
桜若葉の間に在るのは
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながら言ふ
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ
あどけない空の話である


.....以上「智恵子抄」より


あたたらの山を登りながら
わたしは考えた
誇り高き智恵子の悩みとは
いったい何だったのだろう
以下の高村智恵子ノ−トは30代の頃書いたのだっけ



「高村智恵子ノ−ト」

 智恵子は1886年(明治19年)5月20日、造り酒屋の長女として、福島県安達郡油井村添原在に生まれる。戸籍上、1933年(48歳)高村家に入籍するまで長沼チエとして生きた。
ちえの祖父長沼次郎は一代にして財を築いた近代立志伝中の人物である。「幕末から明治維新にかけての土地再編成の中でこぼれ落ち流民化した零細農民も能力と運にめぐまれれば、よその土地でひと旗あげ新しい地場資本として自立することができた。」という近代経済史の側面を代表する人物でもあった。
チエはそんな家の長女として生まれたのである。
チエが生まれた頃、長沼家もようやく「上流」の仲間入りをしたが、それを支える「文化的資質」に欠けていた。そこに、「教育」の必要があった。つまり、教育を修めたチエたちが名実ともに長沼家を「第一級」の家柄に押し上げてくれるはずだった。
 時まさに日本は、文明開化であった。
油井尋常小学校でも、尋常高等小学校でもチエは家の期待にこたえた。そして、より高い文化と教育を求めて上級学校へ、ついには東京に出て行かなければならない運命だった。それは当時の地方において最も普遍的な教育への期待であり「近代」と「文化」への志向のあらわれでもあった。
だが「東京」へいくことは裏を返せば「ふるさと」を捨てることであり、そこで育まれた自分を否定することでもある。
もし、智恵子がそのまま「ふるさと」に留まっていれば「東京には空がない」と訴える必要もなかったし「知恵子抄」のヒロインになることもなかったはずである。
1903年(明治36年)、智恵子は日本女子大に入学。
日本女子大は1901年、日本初の女子大として、成瀬仁蔵によって創立され、智恵子入学当時は、草創期特有の混乱と活気に満ちていた。全国各地から年齢も階層も使う言葉さえも異なる女性たちがあつまって、それぞれに向かうべき人生の方向を模索していた。唯一共通していたのは、燃えるような向学心とそれを支える<新しい女>の自覚であった。
大学構内にある「自敬寮」に住んでいた智恵子はともかくも、ここで「みちのくの少女」から名実ともに「新しい女」へと脱皮していく。自転車、テニス、油絵などと新しいものに興味を示し、それらを修得していった。「地味で控えめ、しかし芯に強いものを秘めた人」というのが、級友の描く智恵子像でもあった。
1911年(明治44年)、「青踏」という女流だけの文学雑誌が生まれる。
創刊号の表紙絵は「長く編んだ髪を背中に垂らしイデアリスティックな横顔を見せた女の立像」だったが、実は智恵子の描いたものだった。「青踏」の執筆メンバ−には、与謝野晶子、田村とし子、森しげ女(鴎外夫人)、国木田治子(独歩夫人)等で、文壇名士の妻女でもあった。「原始女性は太陽だった」と高らかに女性解放を詠いあげた、平塚らいてう率いる「青踏社」の運動ではあったが、実は「あそばせ言葉」による女性解放運動ゲ−ムと言ってもいいものだった。ここに、智恵子は係わりをもっていた。
当時、女子大を卒業した智恵子は郷里からの縁談も断り、東京に留まり、太平洋画会研究所に通っていた。離郷願望と自立志向が影を落としていたのだろう。
しかし、智恵子には、美術家としての致命的欠陥があった。色弱であった。
 後の智恵子の悲劇はこの時期の自虐的な進路の選択にあったのではないか。言い替えれば、広い意味での<家>の重圧の産物でもあった。美術修業をはじめたといっても、縁談という名の<家>の重圧はいささかも弱りはしない。次々と持ち込まれる縁談を断り続けられたのは、まさに光太郎の存在ゆえだった。
1914年(大正3年)、智恵子29歳、光太郎と内縁関係に入る。この年の暮れ、上野精養軒で与謝野鉄幹、晶子、藤島武二ら各界の知名士30名を招いて盛大な結婚披露の式を上げるか、美術教授にして帝室技芸員高村高雲家から受け入れられるはずがなかった。
  この年、光太郎は第一詩集「道程」を発表。第二詩集はそれから27年後の1941年、「智恵子抄」である。この27年間というのは異常な長さである。そこには、おそらく破滅的な戦争へと傾斜していく反動的な社会情勢とともに光太郎自身の内心の葛藤が隠されているのだろう。つまり、「智恵子抄」は智恵子とともに過ごした暗い時代を記念する詩集なのかもしれない。
結婚後9年間には一編の詩すらない。二人は詩を必要としないほど幸福だったのだろうか。
 1923年(大正12年)に作られた「樹下の二人」はこの9年間の空白を埋めるに足る力作である。<あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川>
しかし、40歳前後の二人の現実を考えるとき、この風景は美しすぎはしないか。
智恵子の中の「女人」は無限でも、生活の季節は有限である。愛の変幻にとらえられて、この限定を見失ったとき、悲劇は避けられなかったのだろう。
この空白の9年間、光太郎はヴェルハアランというベルギ−の詩人夫妻の生活の仕方に心ひかれ、丸ごとヴエルハアランを生きていたのである。しかし、女性である智恵子にとってはそれは単なる観念でしかありえなかった。智恵子の生きる原点はあくまでも光太郎との日常の中にしかなかった。そして、光太郎はあまりにも芸術的でありすぎた。
 結婚当時を詠った「晩餐」はあまりにも生々しくそれを物語っている。<暴風をくらった土砂降りの中を…くさやの干物…沢庵…まずしいわれらの晩餐はこれだ>ここにある「貧」は芸術家の良心の証のように、光太郎にはとらえられている。しかし、現実の智恵子はそういう日常に心身の健康を害し、しばしば実家に帰り休養と栄養をとらなければならなかったのである。
 しかも、光太郎はその現実を見ようとしなかった。光太郎は「智恵子抄」のモデルとしての智恵子をみつめても、生身の人間としての智恵子をみつめはしなかった。智恵子にしても、自分のちょっとした言葉が「あどけない空の詩」として表現されたとき、作中の自分と生身の自分との間に分裂が生じる。分裂を避けようとすれば、作品の方へ自分を引き寄せ、<あどけない>女を演じるしかないのだ。その果てに<あどけなさ>の極地としての狂気だったとすれば、これはもうあどけない話どころではないはずである。
1929年、光太郎との生活の中で体調を崩すたびに帰省しては蘇生していた智恵子の実家が破産した。智恵子には帰る家がなくなったのである。
 1932年、智恵子はアダリン自殺をするが未遂に終わる。「わたしもうぢき駄目になる」という予感的中、痴呆状態となる。日常生活において光太郎は芸術も手にできず、ただ智恵子の世話に明け暮れ、父性的となっていく。
光太郎には自分との結婚とそれに続く貧窮生活が智恵子の狂気を招いたことに一種の罪の意識を感じていたのかも知れない。
1935年、地獄のような看病に疲れ、光太郎は智恵子をゼ−ムス病院に入院させる。自意識を失ってからの智恵子は千数百枚におよぶ紙絵を光太郎との唯一の通路とした。しかし、光太郎は同じ東京にいながら5ケ月に一度見舞うという程度だったらしい。
光太郎がレモンを持って見舞った日の夜、智恵子は<狂死>した。病名は粟粒性結核。そして、光太郎は詩人になった。<そんなにもあなたはレモンを待っていた>
1941年、詩集「智恵子抄」出版
.

あたたらの山を
見ながら
歩いて思った
ひとりの女性としての智恵子の苦しみを

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コメント(22件)

内 容 ニックネーム/日時
私は光太郎の・・あなたはだんだんきれいになる・・・という詩が特に好きでした。10代の終わり頃、光太郎と智恵子の愛の形に理想を見ていましたが、それは光太郎の詩からみた二人の関係だったことを、あなたの智恵子ノートを読んで思いました。今ならなぜ智恵子の心が壊れていったのか、現実として理解できるような気がします。
Thank you for you.
2008/06/13 22:46
移動教室で行かれたのですね、安達太良山?
子供たちは、智恵子抄を知っていましたか?
我が子に聞いたら、3人中2人知っていて、少しホッとしています。
智恵子は無邪気な程に純粋な女性だった。
まっすぐに愛したに違いない。
でも、ギャップがあったに違いない。
だから、一人の男性に翻弄され狂気な状態となってしまった。
思い詰めてしまった。
でも、これだけの詩に残ったのだから、光太郎の愛があったことは確かなのです。
だから、憧れの純愛詩集として評価されてきたのでしょう。
いまどきの若い女性にだって、智恵子のような女性はいるでしょう。
きっと、壊れないようにブログ書いているかもなんて思っちゃいました。
マイルド
2008/06/14 01:40
この日記を、最初に開いた時の正直な感想は、
「長い」でしたが(笑)
じっくり読ませていただきましたよ

「智恵子抄」といえば、♪〜東京の空〜♪
の、あの歌を一番に思い出す、凡人の私です、
なので、この日記へのコメントにふさわしいことは、書けませんが
千恵子も、光太郎も、それぞれの個性を
充分に生きた二人だったのではないでしょうか・・
千恵子が、智恵子抄のモデルの千恵子を演じ続けたのかどうかは、
私にはわかりません
二人の愛が永遠に不滅なもので、なかったにしても、
愛し愛された珠玉の時間が、二人に存在したことだけは確かですね




風子
2008/06/14 09:11
◇Thank you for you.♪
そうですね。少女の頃、石川啄木が大好きでしたね。中原中也も大好きでした。でも大人になって、女流作家の評伝のようなものを読むうちに、ちょっと待って、という気持ちがおこりました。寺山修司や橋本治さんたちの影響も大きかったと思います。同じ頃、高村光太郎描くところの智恵子像に疑問をもったのは、高村智恵子の桜の油絵を見た日だったのでしょうか。青みがかった紫の桜がえも言えずすてきで...色盲であったがために絵筆を折ったことが原因とは思えなくなったのですね。
あだたらの二本松で、こんな昔の文章まで思い出して...
あくまでもわたしの仮説ですが。読んでくださってありがとう!
そしてコメントも。愛読してくれる友人は多いのですが、なぜか友人ってコメント書きにくいものなのでしょうか。更新がないとメールや電話がかかります。
ののはな
2008/06/15 01:02
◇マイルドさん♪
移動教室2日目です。智恵子抄は国語の教師が教えたと言っておりました。お宅のお子様たちもご存知でしたか。大正時代も遠くなりましたものね。夏目漱石も教科書から消されたしね。
東京に出てきて、田舎に帰りたくない智恵子の心境にわたしは自分を重ねて見ていました。
なるほど、壊れないようにブログですか。その発想おもしろい!
ののはな
2008/06/15 01:09
◇風子さん♪
お疲れ様でした。ほんとに長いですね。硬い文章で。恐れ入ります。
読んでくださってありがとう!
ほんとの空を151人の生徒たちと見てきました。3日間快晴でした。
わたしもラッキーな女でしょ!
男ってロマンチストだな〜って思いますね。一般化すると怒られますね。少なくとも高村光太郎はそうだったのでしょうね。だからレモン哀歌など詠めた。わたしもそうしようかな。
ののはな
2008/06/15 01:15
文学少女(失礼)、ののはなさんの、面目躍如ですね。
高校でしか習ったことないですが、智恵子と光太郎の関係はこんな風だったかも知れないなんて、思ってもいませんでした。
学校でもこんな風に教えてくれると、もっと現実的な人間として感じることができ、理解もし易かっただろうに。
勉強になりました。
赤兵衛
2008/06/15 16:28
光太郎さん、千恵子さん、やすらかに。
pale moon
2008/06/16 00:53
PCトラブルでご無沙汰しました
智恵子抄でしか知らなかった光太郎と智恵子の関係を改めて知りました。今となってはお二方のご冥福を祈るばかりです。
chiharu
2008/06/16 05:49
こんにちは
今日の写真とBGMそして、記事の内容が
すごく合ってていいなあ、って思いながら
拝見(拝聴)していました。
私も、智恵子抄のことは詳しく知りませんでしたので
ののはなさんの記事を拝見して、勉強になりました。
kirari
2008/06/16 13:54
◇赤兵衛さん♪
そうですか。文学少女ね〜
ブログのおもしろいところはこういうところなんですね。
いつも賭をしているようなドキドキ感。

ののはな
2008/06/16 22:21
◇pale moonさん♪
う〜ん、その気持ちわかるな〜
今のわたしたちにとって、あまりに遠い存在となってしまって
あちこちに利用されてるふたり
ののはな
2008/06/17 18:20
◇chiharuさん♪
PCとつきあうのも女性とつきあうのと同じ
神経使いますね
いいえ、ま、わたしが勝手に料理しただけです
ののはな
2008/06/17 18:21
◇kirariさん♪
音楽合いました?
なかなか思いつかなくて...
ま、明るく行こうと...モーツアルトにしてみました。
これはあくまでもお遊びでして...
岡本太郎のお母さん「岡本かの子」を題材に、瀬戸内寂聴さんは「かのこ繚乱」って本、書いてますでしょう?あれっておもしろいのよね。そんな風に書ければ、わたしもちょっと人生変わったかもしれないのですが。
なにしろ石より堅物って両親に育てられたので...残念。
ののはな
2008/06/17 18:25
一時高村光太郎の智恵子抄に夢中になっていました。
私は「千鳥と遊ぶ智恵子」が好きでした。
人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ
無数の友達が智恵子の名をよぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい------
今でも覚えています。
これは一方的な光太郎から見た智恵子なんですよね。
今始めてそう思いました。
人には色々な思いがあるのと同様色々な見方があるんですね。
ののはなさんのこの文章を読んで改めて詩集を読みたくなりました。
ろこ
2008/06/17 22:17
◇ろこさん♪
それはよかった!思い出して、また再発見があるかもしれませんね。
でロマンはロマンとして大切にしておくこともありです。
わたしの母などは昔、小説家などというものの私生活はあのように乱れたものであるから、決して小説家などと結婚しないようにといっていた(笑)。わたしが結婚しようとしていた人は当時、芥川賞などの候補になっていて、ワープロのない時代故、わたしがせっせと清書なぞしていたもの。友人が「きっといつか有名な作家の奥さんになるのね」って言うから笑ってた。そんなものになられたらたまんないって。事実同じサークルにいて、今は推理小説作家として文庫本や本屋のメインに平積みに置かれる人になった友人なぞはやはり奥さんに去られてしまったもの。
ののはな
2008/06/17 22:26
知恵子抄のさわりしか読んでない私。。ののはなさんの文章をじっくり拝見させていただきました。
自分も下手な詩を時々は書く人なので光太郎という人間像がおぼろげながらつかめるような気がしている。。錯覚かな〜
光太郎の個性と美意識は相当強かったのではないだろうか。。
千恵子は相当なインテリジェンスを兼ね備えていた当時としては進歩的な女性にも関わらず光太郎に屈してしまうほど光太郎を愛した。。
にもかかわらず光太郎の千恵子に寄せる愛とはリアリティーに欠けた絵空事だった。。
千恵子はなぜ文章で自分を昇華させなかったのだろうか。。
もっともっと文章で内面を書き継らなかったのだろうか。。
千恵子とてやはり明治の男尊女卑の社会通念から脱しきれなかったのだろうか。。かわいい女として演じてしまうような。。
浅はかな知識しかないので語るすべは無いわたしですが。。
愛を語るときいつも語られている本人の本当の気持ちは何だったのだろうか。。もう一つの真実を知りたくなってしまいます。
素晴らしい文章ありがとうございます。。
コケコ
2008/06/19 12:21
◇コケコさん♪
じっくり読んでいただけてありがたいです。
文章がこなれていなくて読みにくかったでしょう。
インターネットで文章を書くようになって、言文一致にようやくなれかかっている私です。
光太郎の自意識も相当高かったのでしょうね。高雲の息子ですものね。わたしは長い間、智恵子そうでしょうね。「青踏」の表紙絵が智恵子の作だとは知らなかったのです。で、平塚らいてう率いる「青踏社」に関わりを持っていたと知った頃から、智恵子に興味を持ちました。当然、新しい女をめざしていた智恵子、でもあそばせことばの世界でのままごとのような女性解放運動。当然、智恵子は光太郎とは対等ではなかった。あなたがおっしゃるように智恵子に文章が書けていたならば、きっと事態は変わっていたでしょうね。80年代に生まれていた「女エロス」のような雑誌にでも体験が載せられる時代だったら...きっと
わたしも語られなかった真実が知りたいな〜
ののはな
2008/06/19 22:16
安達太良連峰の里山を歩いた日を懐かしく思いました。
安達太良の頂は奥が深かった。
ただ、空だけは同じように青かったです。
kagi狸
2008/06/22 22:33
◇kagi狸さん♪
今晩は〜
kagiさんは安達太良連峰の里山を歩かれたことがあるのですか。
わたしは仕事なのでいつも同じコースばかりでしたが、もう30年前から何度もこの山を登りました。それぞれに思い出すのは子どもたちのこと。
空はたしかに青かった。でもすぐガスが出て、山は侮れないものです。
一度は雨のため、観音平までぬかるみを登り詰めて、そこで諦めたことがあります。若い男性がどうしても登りたいと駄々をこねて、あ〜あこんな人が休みの日に子どもを連れて山登りをして危険な目に合わせたりするんだな〜って思った日のことも思い出した。kagiさんはどんなことを思い出されているのかしら。
ののはな
2008/06/24 21:30
実際に登り、風景を自分の目で見て詩を読むとまた違ったものを詩から感じとることができるでしょうね。安達太良山に登ってみたいです。
女性運動も盛んな時代、智恵子は与謝野晶子とも親しかったようですね。
先日、『筆子とその愛ー天使のピアノ』の上映会を広島県廿日市市(宮島所在地)で開催しました。市の男女同権課の主催でした。石井筆子を私はそれまで知りませんでした。明治期、社会福祉という言葉すらない時代に知的障害児にあたたかい眼差しを向けた女性です。とても感動しました。
「智恵子抄」わたしの愛読書です。また、読み返してみます。
ゆたかにみのる
2008/07/29 15:01
◇ゆたかにみのるさん♪
明治の女性解放運動もなかなかおもしろいものですよね。
石井筆子のような女性が現れたりしてなかなか時代は動いていたんだな〜って思います。わたしは高校時代の数学の先生のおばあさまがこうした女性解放運動に身を捧げた人で、ちょっと興味がありました。ま、成瀬氏もあの頃としては革新的だったのでしょう。智恵子をいろんな面から見つめるっていうのもおもしろいですね。
ののはな
2008/07/29 23:30

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