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白い記憶 -------------------------------------------------------------------------------- プロローグ 白一色に塗り込められた雪国に、天が宝石箱をひっくり返したようにまばゆく太陽の照る朝、松木の父の葬儀が行われた。 「酒と汗にまみれた父にとって、生涯で唯一の贅沢だ」と、松木は思った。踏みしだいた雪の上に汗を落として、松木は黙々と棺を担いで、丘の上の焼き場に向かった。その後を、数人の男女がつづいた。その中に孝子もいた。 都会育ちの孝子には戸惑いを隠すことができない葬儀だった。しかし、あまりにも素朴なこの葬儀は、松木親子にふさわしく清らかなものに思われた。 五日前、工事現場で父が倒れたという知らせを受けた時、松木は父の死を予感した。松木の脳裏には、幼い日の記憶がよみがえった。白装束の人々の長い列。遠くには天に向かう煙突と森。あれは、祖母の葬儀。あの時は、隣には母がいた。幼い松木の手をしっかりと握った母がいた。 松木は、自らの手で父の亡骸を入れた棺を担ぎ、自らの手で父の亡骸に火をつけたいと考えた。今の自分にできること、もうそれしかないと。 -------------------------------------------------------------------------------- 1. 孝子が地図を頼りにたどり着いた学校は、住宅と町工場が込み合った町外れにあった。孝子が、新任教師として赴任したこの学校を、同僚は「あり地獄」と言った。一度落ちると、二度と這い上がれない、ひどい学校という意味だ。なるほど、ここには出世のために、一時的に身を置いてユ−タ−ンを狙う年輩の男性と新卒で強制的に送り込まれてきた20代の教員だけであった。 一年生の担任となった孝子のまわりには、連日、子どもたちが群れていた。その中に、孝子の肩をポンポンと、叩く子がいた。 「なあに?」と振り向くと「この手、悪い手ね」と自分の手を自分で叩く子がいた。それが、松木だった。大きな目をくりくりさせて、ニヤッと笑う顔はそのままでアニメのキャラクターになりそうにおどけていた。家庭環境調査表には、父一人の名前しかなかった。職業欄には運転手とだけ書いてあった。 「来週から家庭訪問です」とクラスで告げたとき、松木の顔が曇った。孝子は妙な胸騒ぎを覚えた。そして、案の定、父親とはとうとう連絡のとれないまま、家庭訪問週間は終わった。 いつしか、休み時間「先生、あのね」と話しかける子どもたちの群れから、松木の姿が消えていた。そして、松木のいたずらが多くなった 5月のある日、帰りの会で、俊子から「先生!松木君が、今日、化粧ビンを持ってきました。私が注意すると、何にも言わずにいきなりぶちました。」と、訴えがあった。 「どうして、化粧ビンなんか持ってきたの?」と孝子が訪ねると、物も言わずいきなり、松木は教室を飛び出してしまった。 一日の勤務を終えて、帰路につく頃、孝子の胸には重いしこりが残っていた。「入学当時はあんなに無邪気に見えていたのに、この頃の松木の表情は日に日に暗くなる。一体、どうしてなんだろう?」 いつしか、松木は学校を休みがちになっていった。「ね、松木、今日はあなたの好きなビ−フシチュ−だよ。おいで、待っているから。」時にはこんな電話で後から学校に来る日もあった。 しかし、その日松木はとうとう姿を見せなかった。そして、翌日も。「先生、あたしたち、今日、松木のうちに行ってみる!」と、同じ班の麻紀が提案をした。「そう、ありがとう。先生も一緒に行くわ。」麻紀は父親が数年前から行方不明で、今は母と二人、祖母の家に身を寄せていた。 その日の放課後、保の案内で、孝子と麻紀ははじめて松木の家を訪ねた。入り組んだ路地の突き当たりに、松木の家はあった。その路地の小さな家々の玄関先には、所狭しと植木鉢が並んでいたが、松木の家の前だけは雑草が伸び放題になっていた。開けっ放しの玄関から、「松木君!」と声を掛けるが、人の気配はない。 「先生、二階にいるんだよ、僕、行ってみる!」言うが早いか、保は階段を登って行った。保は松木と意外に仲良しだったんだな、と孝子ははじめて知った。しばらく待っていたが保も降りてこない。麻紀を誘って、孝子は靴を脱いで、おそるおそる階段を登った。階段はストッキングの上からも分かるほどざらついていた。上り詰めた所に、ビ−ル瓶のかけらが転がっていた。 松木は西日が照りつける部屋で布団に潜っていた。枕元には、ほこりのかぶったラ−メンどんぶり。「まつき……」と言ったなり言葉が続かなかった。 その時、孝子の目に、先日の化粧ビンが飛び込んできた。それは、白い化粧台の上にあった。孝子は一度に何もかも理解した。この鏡に向かって化粧していた母を、松木は求めているのだ。学校へこのビンを持って来たのも、そんな訳だったのだろう。「なのに…わたしったら、違反物を持ってきたことだけ責めた。」孝子は唇を噛みしめた。 「ゆうべ、おやじ、帰ってきて、ビ−ル瓶で殴った…」照れくさそうに、布団から顔だけ出して、松木はぽつりと喋った。布団の端をしっかり握りしめている手には、血の跡があった。 しっかりしなければ、と思っても孝子にはどうしていいのか分からなかった。「今すぐ、私はエプロンをして、この部屋をきれいにしなければ、きれいな空気を入れて、松木の心もきれいにして…」しかし、孝子の体は凍り付いたように動かなかった。この日まで、孝子はこんな世界のあることさえ知らなかった。 「学校休むなんて、ずるいぞ−、松木!」孝子には、保の声が遠くに聞こえた。 2. 孝子の後ろの窓からは、5月のひんやりとした夕暮れの空気が流れ込み始めていた。 「ね、先生、どうしたらいいのでしょう」と尋ねる母親の顔には、孝子への不信感がくっきりと滲み出ていた。あの色白で幼い顔立ちの尚志のお尻がみみず腫れとは、なんと体育教師に竹刀で殴られたとは。尚志の母親に動揺を気取られまいと思う孝子だったが、そんな努力は何の意味もなかった。結局、孝子は母親が納得できる説明も解決法も何一つ示せなかった。 あれは孝子が赴任してまもなくのことだった。明日の指導案が決まらず、孝子は放課後遅く、書きかけの紙を破っては丸めていた。 そのとき、職員室の入り口にひとりの男子生徒が現れ、具合が悪いと訴えた。職員室には孝子だけだった。どう判断していいかわからず、体育館に教員を求めてでかけた。2.3のクラブがまだ活動中だった。「顧問は」と聞くと、「教官室」と教えてくれた。 教官室のドアを開けたときだった。空気を切り裂くような音と同時に孝子の足下に男子生徒がどさっと崩れ落ちた。はっと息を飲み込み、顔を上げると、体育教師のものすごい眼差しに貫かれた。 「なんだ?」 「バレー部の子が具合が悪いと…」 「それがどうした!」 「どうしたら、いいかと思って…」 「帰せ」 「はぁ?」 「放課後だ、家にとっとと帰せ!」それだけ言うと、彼は孝子の足下にうずくまる生徒に「立て!」と怒鳴り、その襟首を掴んで引きずり起こすとふたたび拳でなぐった。 孝子は、くしゃくしゃになった男子生徒の目を戦時中の日本陸軍を描いた「真空地帯」の新参兵の目のようだと思った。教官室には新任の体育教師の姿もあった。彼の目は薄笑いを浮かべているように見えた。 反射的に、「失礼します」とドアを締めることも忘れて孝子はその場から逃げ帰った。今も、あの日の胸の鼓動が聞こえてくるようだ。 尚志もあの男子生徒のように殴られたのだろうか。一体、どうして、こんな野蛮なことが戦時中でもないのに、しかも学校という場で起こるのだろうか。孝子には訳が分からなかった。尚志の母にはひたすら謝った。それしかできなかった。 翌日、意を決して体育教師に事情を聞いた。 「おまえの指導が悪いから殴られるんだ!」 「どういうことですか?」 「わからなければ、おまえも殴ってやろうか!」 もう孝子にはそれ以上言葉がなかった。それ以上、抗議することもできず、すごすごと引き下がらざるをえなかった。疲労にまみれて言いしれぬ惨めさが襲ってきた。誰かに相談すべきだろうか、管理職に。いいえ、そんなことは考えられない。バレー部はうちの学校の花形。では、組合の先生に。それも無駄。「あの人、去年、生徒の耳の鼓膜を破ったのよ」とみんなは平然と話をしていた。話しても、単なる愚痴になる。では、どうしたらいいの。 その日、孝子の足は家とは逆の方向に向かっていた。頭の中には「理論武装」という言葉がぐるぐる回っていた。だれか、わたしに知恵と勇気を与えて下さい。神田の書泉は相変わらず、通勤帰りの人と学生でごった返していた。階段を登り、いつもの教育のコーナーにいく。教育裁判、日の丸・君が代、教師の権利、人事、研修…しつけ、授業案…。どこにわたしの求める本があるのだろう。教師の暴力、教師の力量…。どこにも子どもの人権というキーワードを見つけることはできなかった。 つい3ヶ月前までは、孝子はどこにでもいる女子大生だった。ミニスカートとパンプスを履いて、大学のキャンパスを友人たちと笑い戯れる女の子にすぎなかった。頭の中は週末のダンスパーティのことや今読みかけている小説のことでいっぱいだった。あの3ヶ月前までの世界が夢なのだろうか、それとも今の世界が夢なのだろうか。あまりのカルチャーショックに孝子の頭は混乱していた。人間でいることのいちばんの悲しいことは、無知の深さなのかもしれないと孝子には思えた。 翌日、掃除の後、尚志を教室に残した。あたふたと職員室での仕事を片づけて教室にもどると、あどけない顔つきで椅子にちょこんと座って待っている尚志がいた。何があったの、どうして殴られたの、と問う孝子に尚志は恐縮したように「僕が悪いのです」と小さく答えた。 「悪いって?なにが」 「教科書忘れたんです。」 「そ、そんなことで…、他のクラスで借りればよかったのに」 「それだから…」 「先生ってなんにも知らないんだね、他のクラスで借りちゃいけないのだよ」 いつの間にか、後ろに保が立っていた。 「そんな、何も用意しないより、借りた方がいいのじゃないかしら」 「あの先生にはそんなこと通らないよ」 沈黙。 「みんな殴られているんだよ、なんだかんだって理由つけて。僕は体操着、洗濯されちゃったから、その理由を言おうとしたら、男子に二言はないって怒鳴られて、2発もよけいに殴られちゃった。おかげで、しばらくお風呂に入れなかったよ。」 「まあー」 「でもね、一番ひどい目に合っているのが、松木だよ」 「ええっ」 「反抗的だとか、その目つきはなんだとかって」 そうだったのね。松木の毒気のある目つきを思い出した。体育のある日はそういえば来ない。 と、後ろから唐突に 「ね、先生、わたしたちで秘密結社作りましょうよ」 「あら、麻紀ちゃん、どうしたの?」 「あたしたち、尚志のこと心配だったから、残っていたんだよ。ね、保」 「そうだよ、この頃、先生いつも忙しい忙しいばっかりでさ。ついでに僕たちともおしゃべりしようよ」 「ありがとう、みんな、いい子で、先生とってもうれしい。」 孝子の声はちょっとくぐもっていた。 「やだね、先生は泣き虫で」 わたしの魂は子ども時代のどこかで凍りつき、その部分だけが大人になれないでいるのかもしれない、と孝子は思った。 |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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これからどう展開するのか、決して明るくない社会の中で、子供たちが傷つきながらも、助け合って生きていく姿が見たいですね。 |
森の生活 2008/06/30 08:45 |
こんばんは〜。感想ですよ。^^ |
さとし君 2008/07/01 02:32 |
これは、ののはな先生の実体験ですか〜? |
風子 2008/07/01 10:00 |
◇森の生活さん♪ |
ののはな 2008/07/01 20:17 |
◇さとしさん♪ |
ののはな 2008/07/01 20:28 |
◇風子さん♪ |
ののはな 2008/07/01 20:41 |
...続きます・・ |
ののはな 2008/07/01 20:42 |
私の子供の頃を思い浮かべることばかりです。お互いに元気な間は何とも思わなかったこともこうしたときは不思議と次から次へと走馬燈のように思い出がよぎります。亡くなった人のことも自分の子供の頃も・・・。 |
chiharu 2008/07/01 20:56 |
◇chiharuさん♪ |
ののはな 2008/07/02 21:39 |
ののはなさん、こんばんは |
kirari 2008/07/02 22:27 |
白い巨塔の教育版ですね。。 |
コケコ 2008/07/03 17:31 |
◇kirariさん♪ |
ののはな 2008/07/03 21:19 |
◇コケコさん♪ |
ののはな 2008/07/03 21:31 |
創作・・ですか。 |
pale moon 2008/07/14 23:46 |
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